人工無脳は考える | 資料 |

映画「A.I.」対談

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2001年夏に公開された映画「A.I.」は、我々に多くのことを考えさせてくれました。プログラムを愛せるのか、愛する能力を持つプログラムを作ることができるのか、ロボットは人の脅威になるのか?・・・この企画では、そういったトピックの前線で戦っている何人かの人に登場していただき、A.I.をめぐる対談を行いました(現在進行中)。対談はメールを使って行われました。興味深い話題がいくつもあります。その内容を一部編集してお伝えします。無論ネタばれですので、映画鑑賞後にごらんになることをお勧めします。

対談その1:愛のアフォーダンス

時限さん(若き心理学者):
AI、観て来ましたぞ。
「愛する」回路という発想は面白いのですが、それがブラック・ボックス になってて、しかも無条件に人間と同じように振舞えてしまうところに かえってリアリティを感じなかったです。 キューブリックなら、きっと愛の恐さまで含めた過剰な「愛」の形を描いた のではないか? 

しまりす:
HAL的な得体の知れなさはデイビット君が基本的に無力な存在として 描かれていたせいでちょっと薄かったですね。母親認証より前の食事シーンで 突然笑い出すあたりは自閉症的挙動かなあと思いましたが、どうなんで しょうか。
その持ち味を後々まで引っ張れればなかなかよかったんですが。 AIではむしろ、残酷なリアル少年と善良なロボット少年という構図が 新しいかも。

時限さん:
うん、いえてますね。
愛着行動って生態心理学的に考えれば、生存のための重要な戦略だと 思うんですよ。親から見離されたら哺乳類や鳥類は生きていけない わけで。だから赤ちゃんは養育行動を引き出すようなアフォーダンス をもってる。AIでも、出だしはそのへんがうまく描けていたように 思います。
でも、マーティンとの母の愛の奪い合いの局面で、高性能のAIであれ ば、ゲーム理論等を駆使して、さぞや狡猾な愛情奪取ストラテジーが 講じられるだろうになー、などと思ってしまうんですよね。 なんか夢も希望もないストーリーになってしまいますが(笑)。
それから、食事の場面で他人の動作をまねる、ということが共感の 第一歩として描かれていた点は発達心理学的にもうなづけました。

時限さん:
ジャンク・ショーで観客はデイビッドに感情移入をしますね。 ロボットとわかっていても壊せない。壊されてゆく、中身の部品がむき出し のロボットにさえ同情してしまう。
ここは映画の中で一番考えさせられた場面です。

しまりす:
ある存在を愛するために必要な条件って何でしょうね? 愛されるアフォーダンスってもんがあるんでしょうね。 わりとだれにでも愛されるキャラクタってのが実在します。 愛されるアフォーダンスはそれらから抽出可能かも。 しかし、「蓼食う虫も好き好き」という言葉はそのアフォーダンスが 人によってさまざまだという意味ですね。

時限さん:
アイボとデイビッドの最大の違いは、デイビッドはひとりのユーザにしか 愛を向けず、スイッチをオンオフできず、壊れるまで動きつづけるってこと ですよね。全くパーソナルな「関係」をベースにする点は今後のロボット (人工無脳)設計を考えるうえでも参考になるような気がしました。

しまりす:
たまごっちがこれらの条件を満たしていますね。シングルユーザ向けで、 オンオフできない。たまごっちも多くの人々に愛された、愛される アフォーダンスの持ち主です。あれは養育行動を引き出すアフォーダンスかも 知れませんが。

対談その2:「『愛』ってそんなに特別なモノなのかな?」

ケイコウトウさん(「人工人格」研究所。主催者)
A.I.見てきましたー。
感想ですが…「映画」としての出来はともかく、 最後の場面。 クローンであるハズの「彼女」が「彼」を覚えているはずないですよね… あれこそ「造られた愛」だなぁと思ってしまって泣けなかった。 海中のシーンで終わっていたら届かなかった愛…という話になって、 もう少し良かったと思うのですが。

しまりす:
そうか!そりゃー気が付きませんでした。真のA.I.は宇宙人によって 人工的に再現された知性たる、お母さんだったんですね。

ケイコウトウさん
テディベア。 AIBOが進化したらああなるんだろうか…。 似たような商品はこの夏にでも実現しそう。

しまりす
変にリアル系を追求しなかったところが勝因なんでしょうね。 アニメのように誇張され脚色されたキャラクタのほうが、 リアルなポリゴン人形よりも愛らしく、受け入れる抵抗が無いといわれて います。これは西洋人と日本人のメンタルの違い? ただのアニメ世代の刷り込みかもしれませんが。
あと、くまのせりふで意図的にロボットっぽく演出されていたのが ジャンクショーで係員につかまれて落し物箱に入れられるまでの せりふです。言っていること自体はぜんぜんおかしくないし、 毎回言い回しを変えるなど芸が細かいんですが発話のタイミングが 規則正しく調子が変わらない、というのに強い違和感を感じました。
なぜでしょうか?
くまが相手が話を聞いてくれないことに対していらだつようになっていない ということと、人間なら3回くらいであきらめるかも、ということが考えられ ます。それとも返事をするまでのタイムラグって言うのは人間の場合 結構変化してるんでしょうかね?むしろタイムアウトは厳しくチェックして いるような気がしますが。

ケイコウトウさん:
結局、「ディビッド型」ロボットはその後「売れた」のか? 主人公の「彼」は、試作品か製品第一号なのでしょう。 マン=ハッタンのシーンで、大量生産された他のディビッドが居たけれど、 あれは結局売られていったのでしょうか?

しまりす:
えーっと、第一号君はその後フェアリーのとこへ行ったんでしたっけね 製作者があれだけ浮かれていたので、きっと売られたと思います。 愛を実装する技術ができたのであれば、それ以後のロボットにも どんどん応用されたんでしょうね。量産か・・・ 一人の母親が2台のデイビットを買う、そして母親を巡って2体のデイビットが 壮絶な愛憎劇を繰り広げたりしたんでしょうか?

ところでデイビットですが、 我々もなぜか製品としての人工無脳に人の名前を付けてますよね。 ちかちゃんとかカツオとか、それは本来辞書につけられる名前である はずで、システムとは関係ないのでいつもおかしいなと思います。 だから各デイビットにも違う名前をつけるのが自然なんでは?と思いました だいいち紛らわしい。 展開的には、あれだけのロボットがフェアリー像を偽者と見抜けないのか というのがもっとも気になったところ

ケイコウトウさん:
ワタシが多少気になった点・うーんと思った所は、 「愛」ってそんなに特別なモノなのかな?ってこと。 「人間」だって「愛」のない人は沢山います。 「AI」には愛は理解できないかもしれないけど…。 彼は愛すること、愛されることの「実践」をしていたとは思うのですが、 …多分監督的には理解できていた、ということにはなってるんでしょうが、 ワタシにはあれが「愛」とは思わないんですよ…(汗)。
#あれは「本能」に近いんじゃ…。もっとも、
#「愛」が所詮本能的なものなのかもしれませんが。

しまりす:
ケイコさんがデイビットに愛を感じない理由は何? 感じるに理由も何もないんだけど、もう少し詳しく聞きたいです

ケイコウトウさん:
…自分があまり、子→親の愛がないからかもしれません…。
なんか、ディビッドは母親(の愛)を「求めている」んだけど、 「母さんのために何か僕にできることはないかな」というのが あまりなかったように感じたんですが。

しまりす:
そうか。なるほど。たしかに愛されることには貪欲でしたね。 それがプログラムだからとかそういう話じゃないんですね。 ジョーのは・・・愛?

ケイコウトウさん: 多分、プログラムかそうでないかの前の段階だと思います。 ジョーのもある意味「愛」でしょう(笑)。 愛って結局「受け取る」人次第だろうし…。

あと「女の子型デイビッド(?)」らしきロボットの箱がありましたよね? あれは結局なんだったんだろう…。 あれが製品化されたらそれはそれで別の用途に……。

しまりす:
いや、デイビット君でさえ別の用途に・・・! 母親から要求されればあんなことやこんなことまでするに違いない
たとえばジョーとデイビットの役を両方女の子型のロボットが演じたら・・・ 娼婦型と美少女型のコンビ?おもむろに違う世界に全力疾走しそうだ。 母の愛を信じてブルーフェアリーなんて展開にはなりそうにもない

ケイコウトウさん:
…男の子は母親似の女の人に、女の子は父親似の男の人に、 惚れる傾向があるという話も聞きますので、 「父親への愛を越える愛(どっかの男)」を探す話にでも なりそうな気がします。…王子様探しとか?

しまりす:
女の子のほうはもうお父さんは卒業なんですね。発達の様子が ちょっと違うわけだ

ケイコウトウさん:
かなり違うことになると思いますよ。 少なくとも父親を求めて時を越える旅はしないでしょう…。

terattiさん、試験が終わり次第参戦予定

そのほかご意見などありましたらぜひメールください

>「A. I.」私も見ました。内容は、、、、、まあスピルバーグですね、やっぱり(笑)。  私敵には、最後にデイビッドが母親に会えた、というのは問題ないような気が します。あくまで彼は「母親に会いたい」のでありましたし、「愛されたい」と 言うプログラムも成功していますし、、、、。  気になるのは、彼は最後に「死んだ」ということです。これがほかの量産型デイ ビッドにも言えることならば、他のデイビッドも母親が死ねば自分も死んだの か、という疑問です。出ないとおかしいじゃありませんか。その時代では所詮 ロボット、という見方しかしていないということになります。と、なれば母親、 ジャンクフェアでの観客たちはなぜデイビッドに同情というのか、、、 そういったものを持ったのか、、、、、、。  そして、A.I.は結局人を愛することができるのか、、、、、、 私はできないと思いますし、むしろ危険な事のようにも思えます。まあ、「物」 として愛でるのならよいでしょうが、愛するというのは、絶対につらくなると おもいます。人間は人間であり、リアルに生きるもの。AIはAIであり、バーチャル リアリティーに生きるもの。それをしっかりと分けておかないと大変なことに なると思います。道ならぬ愛は危険ですね。

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