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言葉の呪術的な力

言葉の呪術的な力

2022-08-13

Shinichi Kato
加藤真一 Ph. D.
チャットボット研究者

現代の社会において、呪術は未開な部族に残る迷信であったり映画やアニメに登場するファンタジーとされていて、それが現実に効力を持つものであるとは考えられていません。
ですが、それは本当でしょうか。
私達は親しい相手から愛称をもらい、その名前で呼ばれることで行動が変わっていつも以上の能力を発揮します。 逆に気に食わない相手に故意に貶めるような名前をつけ、それによって相手を無力化しようとします。これらは相手の力を強めたり弱めたりする効力を持った呪術と言えるかもしれません。 また裁判所では証人尋問に先立って「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べない」旨の宣誓が行われます。 これは純論理的にはその後の証言で嘘をつかないことと無関係なはずですが、宣誓をした自分自身に対して縛りを課すという効力を持つことが社会的に認められています。 言葉を覚えつつある子供は、大きな力を持った大人が無力であるはずの子供の「言葉によって命令を聞く」という体験をしています。これは「神話の神々がその名前を知られた人間の命令に従って使役される」というプロットの原型であり、呪術的な感覚が今も私達に息づく源と言えるでしょう。

このような言葉と呪術の関係は井筒俊彦による 「言語と呪術」 1の中で詳細かつ重層的に議論されています。今回はこの書籍の要約・紹介を試み、チャットボットと呪術の関係について考えるための足がかりにしたいと思います。

言語と呪術

人類が言語を操るのに十分な解剖学的特徴を発達させたころ、つまり旧石器時代と新石器時代の間には女性をかたどったヴィーナス像、動物の像、壁画などが見つかっており、言語の獲得と呪術の形成は同時期に進んだと考えられています。 その時代から呪術と言語の関係というのは極めて密接だったと思われます。そこで過去から現在に至るまで、それらを論じる準備として以下の三点について示します。 第一に私達の言語は常に現実の何かを記号(象徴)に置き換えて扱おうとする傾向があります。夢の中では心に思い描いたことが、思い描いた事そのものによって真実になるといえます。とすれば、経験を象徴に翻訳する働きは心の本来持っている傾向なのでしょう。 第二に、呪術といえば定式化された儀式や信仰と考えがちですが、実はそれだけでなく主観的で情緒的な行動がその前にあって、この儀式化される前の段階の呪術こそが呪術の中心的な役割を果たします。 第三に、現代的な日常と、呪術つまり超常という区別は適切ではありません。日常の中にあっても七五三や成人式、結婚式、葬式と行った儀式は現在でも行き渡っていて、呪術は日常に深く浸透しています。 その一方で昔になるほど呪術の我々に対する影響は強かったと言えるでしょう。言語の論理的な分析からは呪術、魔術、占いなどは未開な習慣の名残に見えますが、心の中で起きる様々な過程の現れとして言語を捉える場合、これら「言語呪術」は文化的な人々の中にも姿を変えて生き続けていることがわかるでしょう。 現代では言語は主に情報伝達の手段と考えられていますが、実際には論理的な記述をしようとすると自然言語はとても不完全で、本当に論理的な記述が必要な分野では専用の人工言語を生み出す必要があったのです。 このように、言語には呪術(マジック)論理(ロジック)の2つの側面を見ることができ、それらは絡み合って容易に分離できない姿をしているのです。

宗教・神話と呪術

さて、呪術と言語の関係について大まかな全体像を考えたところで呪術そのものの定義をもう少し具体的する必要があります。その途端に現れるのが呪術と宗教の違いはなにか、という疑問です。 ジェイムズ・フレイザーは「金枝篇」の中で「呪術は類似性や近似性ゆえに単純に連想してしまうことから始まり、世界が精霊や神々にではなく、自然の普遍法則として機会的に作用する無意識の非人格的力によって統べられる」と仮定しました。 一方で宗教は「事象の生々流転も人間的生の成り行きも超人間的な存在によって方向づけられ、その善なる意思に人は祈りや共犠によって懇願できる」としました。 この考え方によれば呪術と宗教は相反するもので、宗教的な祈りと呪術的な呪文を同時に唱えることは矛盾だと言えます。しかし祈りと呪文は言語学の観点から見ると本質的な違いはありません。 その例として井筒はバビロニアの主神マルドゥクが「神々のなかの呪術師」であったことを始め、旧約聖書第2イザヤ、古代インドのリグ・ヴェーダ、シュメール人のエンキ神などを挙げて、神々が言葉を発するとそれが具現化するということに触れています。 このように言葉がもつ呪術的な力は言語そのものにも名残をとどめていて、ヘブライ語では物とそれを示す名前、考えの間に区別がなく、古代日本語でも言葉と対象をいずれも「コト」と呼んでいました。 よく似た現象として人の名前に対する捉え方があり、一般にはわからない理由である名前は縁起が良く、ある名前は不吉であると考えられており、また個人の本名(真名)を知ることで相手の霊魂を支配できるとされています。 名前を知ることで相手を支配するという観念は人間だけにとどまらず、神の名もまたみだりに用いてはならないと言われ、逆に不吉なものの名前を口にすることを避けて回りくどい表現をします。

現代社会の中の言語呪術

今日の社会では言語呪術がどのような形で存在し、どのような役割を持っているのでしょうか。
宗教は儀式や呪術が現在でも色濃く残っている部分だという点はあまり議論の必要がないでしょう。そこで、それ以外で呪術が使われている例に注目します。 ロジックや理性は人間なら誰でも等しく持っていると考えられがちですが、それは文明的な社会における人工的な産物であり、実は呪術に対する愛好こそが「誰でも等しく持っている」と言われるべきものです。 それは縁起の良い数字・縁起の悪い数字やお守りなどが今でも広く認められていることからもわかります。その中で特に言葉を主体とした言語呪術の性格を持ったものに法律があります。 古い社会における部族的な掟や儀式、つまり様々な禁止事項をまとめたものは今日の法律の成立に大きく影響しています。そして法律を権威として私達が受け入れていることは呪術的な文脈から理解する必要があります。 例えば裁判では宣誓が行われますが、これは明らかに呪術的行為で自己呪詛の一種であると言えます。また司法の手続きはいずれも儀式的な手順を守っており、法律の中で宣言されるのは「盗んではいけない」といった指示・命令で、いずれも呪術の特徴を備えています。
ここで、詩もまた儀式的な性格を持った言葉です。音楽的な詩は韻をふみ、感情を乗せることで大きな力を発揮します。これは言語呪術にほかなりません。 例えば詩人が「花!」という言葉を発話すれば、日常的な花とは全く異なる、この世のどこにも実在しない完璧な花のイデアそのものが、空気中にあたかも存在するかのように喚起する力を持っており、ポール・ヴァレリーはその絶対的な美を言語の持つ呪術的な力だと明言しています。 さらに詩の持つ力を探求した詩人は、日常の普通の言葉でも感情を込めて発話されることで、強力で効力のあるものに変容することを示しました。 こうなると、たとえ中立的な言葉であっても感情に訴えかけるトーンでそれが発話されるのであれば「扇動」のように数多くの人々に影響を及ぼしうることは注意すべきです。 「絶対」「のだ」のような強調を示す単語は、日常的に、無意識のうちに使われる言語呪術に属するかもしれません。

「ヘビだ」とハトが叫びました。 「ヘビじゃない!」とアリスは怒って言いました。「ほっといて」と。
「『ヘビだ』と言ってるじゃないか」とハトは繰り返しました。 ー ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』第5章

このような修辞的強調では、それをするのとしないので眼の前の現実には差がないはずにもかかわらず、何かを断言することによって言葉が拘束力を持つようになります。

この節をまとめると、言語的呪術のわかりやすい例として法律や詩のような特殊な形式を備えた儀式的発話から議論を始めましたが、実際はどんなありふれた言葉であっても呪術的な成分が常に付き従っているということが言えます。 またこの呪術的な成分は人の感情や無意識に由来するものであり、言語とは切っても切れない関係だと言えるでしょう。

呪術の根源

ここまで節で、言葉の隅々には呪術的な力が潜んでいるという仮説を示してきました。その中心となるのは儀式や定型的な文言ではなく、強い欲望や感情の自発的な表現です。 起源は私達の誰もが思い当たることでしょう。それは子供が言葉を習得するときの体験です。幼児期には、誰かの名前を発話することでその人が眼の前に現れることを理解します。 つまり「ママ」と発話する時、それは母親についての説明を述べているのではなく、母親を自分の意図通りに動かそうとする命令であるわけです。 言語呪術という問題を扱ってきた人たちのほとんどは、オグデンとリチャーズの三角形(Fig.1)において、言葉つまり呪術とは象徴であり、呪術が指示対象に対して直接的に影響を及ぼしている(Fig. 1中の「関係1」)と考えています。

Fig. 1. OgdenとRichardsの三角形(一部加筆)
Fig. 1. OgdenとRichardsの三角形(一部加筆)

幼児における言葉の使い方を観察しても、類似の傾向が見られます。また未開の人々は言葉と物を混同する傾向があり、このことは正しいように思われます。 ところが成長に従って言語能力が発達するにつれ、言葉(=記号)が示しているのはその心象(=概念)になっていきます。 心象はそれの定義が不明瞭であっても許容される、という言語の優れた、と同時に問題となる特徴をもち、言葉が概念を指し(Fig. 1の関係2)、概念が指示対象を指す(Fig. 1の関係3)という関係を描くことができます。 これこそが言葉の意味の意味するところであり、また心象そのものは曖昧で非力なものですが、それゆえに潜在的な可能性を持っていると考えられます。

すなわち、なにかの名前を呼ぶときはいつも、その心象が心の中に呼び起こされます。心象は心の中において現実と同じかより理想的な姿をしており、より理想的な力を持っています。 それは私達自身も気が付かないほど微かなものかもしれませんが、呪術だと言えるのです。

これらのことはほとんど心の中での出来事であるため、科学的に観察され、裏付けられてはいません。 心理学の分野では「行動主義」と呼ばれる考え方があり、客観的に観察可能な事実の積み重ねによって心理学上の様々な問題にアプローチしようとしました。 しかしその結果、観察不可能なことを単に放棄することにつながって十分な理論を構築するに至っていないことは認める必要があるでしょう。

言葉が指し示す心象は曖昧で概念的で、経験したことも非経験的なことも同じ土俵の上で思考することができます。 心象の世界では「竜」「一角獣」「燃素」のような存在しないものが「犬」「椅子」とおなじ資格で存在できます。それが可能なのは「犬」や「椅子」でさえも単に心の中に呼び起こされた幻影であるに過ぎないからなのです。

言葉の喚起力

言葉によって何らかの心象を喚起することを呪術であると考えたとき、井筒はその呪術をより特徴づける要素として以下の4つを提案しました。

  1. 指示的側面
  2. 直感的側面
  3. 情緒的側面
  4. 構造的側面

まず指示的側面とは、例えば「机」のような言葉を聞いたとき心の中には机という概念が呼び起こされます。「机」という言葉は単なる名詞ですが、その実態は机概念を心に呼び起こす指示であるとも言えます。 このような指示的な働きの中で特に力を持っているのが否定です。私達は肯定の表現「Xである」に対してはその主張を客観的に吟味するように思考できますが、否定の表現「Xではない」の場合はそれを受け入れてしまうかのような幻想を引き起こします。 誰かが否定を言葉による思考の水準で操作し始めたなら、人は極端な危険にさらされることになるということが明らかです。
次に直感的側面とは隠喩(メタファー)の使用で、詩的喚起力とも呼べるものです。
「机と椅子が会話している」の場合、無生物である家具に対して人間に対して用いられる「会話する」が転用され、まるで人間であるかのように机や椅子が談話するシーンをありありと想像することができます。 この働きは喚起と言えます。
情緒的側面は喜怒哀楽のような感情を記述する単語の使用にとどまらず、あらゆる言葉は感情的に使用されることによって情緒的に作用しえます。井筒によるバークリーの引用を抜粋します。

例えば、あるスコラ学者が私に「アリストテレスがそう言った」とのべるなら、これによって彼が意味しているのは、習慣がアリストテレスの名に付加した敬意と服従を通して、自分の意見を受け入れるように私を仕向けていることだとしか思えない。

このように強い感情を呼び起こすことで聞き手の考えを歪める手法は現代の宣伝やプロパガンダと同じものです。感情的に話すということは言語呪術を使うということです。 そして私達は感情を一切排除して話せるようになるか、というとそれは到底無理と思われます。つまり現代であっても未開の時代と変わらず言語呪術は影響力を発揮し続けているのです。
最後に構造的側面は文法から生じる喚起力です。実体を表す語(名詞)、属性を表す語(形容詞)、現象を表す語(動詞)という区別は様々な言語に存在し、その枠組みに従って文のパターンが作られています。 ここで、基本的な文のパターンである「主語-述語」という命題の形式があります。 これに従って何かを言明しようとすると「燃える」のような述語のみでは形式を満たさないので、主語に当たる何かを設けることを言語の構造が我々に強制し、例えば「火」という名詞を主語として「火が燃える」といった表現をします。 しかし「火」は物理学者によれば物ではなく、活動または過程であるため、本来は「火」という名詞ではなく「燃える」という動詞で記述される方がふさわしいものです。 つまり、名詞、動詞、形容詞のどれを選ぶかによっても喚起される内容が変わるということが分かります。


  1. 井筒俊彦「言語と呪術」慶応義塾大学出版(2018)
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