新潟鉄道跡見物記(その3)

キ100型キ116号
1932(昭和7)年鉄道省大宮工場製のラッセル車です。 ラッセル装置付きディーゼル機関車が登場する以前の 代表的な国鉄のラッセル車で、 動力車に推進されて正面の大きなスノウプロウで雪をかき分けます。 かつては国鉄奥羽本線新庄駅常備の車両でした。 1968(昭和43)年5月に新潟交通が当時の国鉄より購入し、 以来30年以上にわたり冬の鉄路を守ってきました。 常にモワ51号に推進されて使用されるため、 キ116号の運転台でモワ51号の運転操作ができるように改造されています。

モワ51型モワ51号
新潟電鉄(新潟交通の前身)が開業に際し、 1933(昭和8)年8月に日本車輌東京支店で製作した電動貨車です。 新製以来ほとんど改造もされず、昭和初期の電車のスタイルを今に伝える デンテツ生え抜きの車両です。 米や肥料を積んだ貨車を牽引したほか、野菜の輸送にも活躍をしていました。 1982(昭和57)年に貨物輸送が廃止になると、 降雪時にラッセル車キ116を推進運転する除雪列車が主な仕事となりました。 車体中央にある貨物室は10t積、自重は25.6tです。

モハ10型モハ11号
1999(平成11)年4月の新潟交通電車線廃止まで主力として活躍した旅客用車両です。 「カボチャ電車」の相性で長年にわたって親しまれていました。 モハ11号は、1933(昭和8)年の電車線開業にあたり、 東京のに本社両で製作した4両の電車のうちの1両で、1955(昭和41)年に 現在の車体に交換されています。 なお、この車体は昭和30年代を中心に日本車輌が各地の中小私鉄用に 製作した統一規格のもので、通称「日車標準車体」と呼ばれています。 定員は114名(うち座席38名)で、自重は31.tです。

後日月潟駅跡を訪れたところ、 有志の方々が月潟駅に保存されている車両のメンテナンスをしていました。 その方の話では2番ホーム(線路のない方)は取り壊されるかもしれないとのことでした。

燕行き???

その他、ホームには新聞の切り抜きとか写真といった資料が展示してありました。

資料の展示

その資料の中に気になる記述が。。。(写真の解説、この場では写真は省略)


電鉄燕駅駅舎

 JR燕駅の右隣に、電鉄燕駅がありました。
 駅前の自動車と青年2人は廃止と聞きつけ 東京から撮影に来たマニアです。 現在電鉄燕駅跡地には手前の交番(派出所)が 移設新築しました。

弥彦線と電鉄

 かつて、国鉄貨物駅と新潟電鉄と合わせて3の駅があり、 往時の燕駅は祭りのように活気がありました。  1と2番線の空き地箇所に国鉄貨物引き込み線が有りましたが、 昭和55年頃廃止となり、電鉄も廃止となって、 もの淋しくなりました。

3番ホーム

 改札後、JR連絡橋を渡り3番線が電鉄ホーム・・・。
 階段左の原動機貨車は、かつて、1番線国鉄貨物ホームから 3番線電鉄ホームに小包を運搬し、停車の電鉄客車内に小荷物を 運転席右手に積んで、白根方面へ乗客と一緒に搬送しました。

東関屋行き電車

電鉄最後の夏・・・。2番ホームのタチアオイが綺麗だった。 電車と花が見れたのが、これが最後であった。
 列車胴部は「ジャスコ」「東邦生命」「TNNテレビ新潟」 なる広告がよく見られた。

燕着最終列車

 最終列車は東関谷から月潟に来、2度と来ることのない燕に、 到着列車を迎えるは最後の燕駅長の後ろ姿。  この3窓タイプ全車両は廃止一週間前に、 六分駅構内に移動し、無惨にも殆どスクラップされました。

花束贈呈式

 最終列車は、燕市長・同助役・同収入役も見送りに来られ、 同女性職員から、最終列車運転手・最後の燕駅長に花束が贈呈された。
 この時、ホームは稲光のようなフラッシュが絶えませんでした。

燕発最終列車

 19時57分をかなり遅れての発車であったが、 電鉄ホーム・同構内ばかりでなくなんと、 JR1番ホームから遠巻きで列車を見送られた市民も多かったです。
 この列車を最後に60年の歴史に幕を閉じました。

レール撤去

 電鉄燕駅構内は、永い間国鉄の敷地を借りての営業でした。 そのため、用地を早々に返還する為、廃止の翌日には、 早々とレール剥ぎ取り作業が行われました。
 現在も空き地であり、相変わらず殺風景ですが、 近々宅地造成の話もあります。

電車からバスへ・・・

 平成5年8月1日をもって廃止となり、 燕・灰方・小中川・新飯田・六分駅の玄関に、 廃止1週間前位から、各駅舎が取り壊されるまで、 この新潟交通の挨拶看板が掲げてありました。


 う〜ん。写真がないと何のことやらさっぱりわからんものも有るぞ。


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